「美学における理論の役割」メモ

 

「美学における理論の役割」という論文のフィルカル1-2に載っている翻訳を読みました。読んでも0.000002秒で忘れるので適当にメモを残しておくことにしました。専門教育を受けていない素人の走り書きなので本来そのへんのチラシの裏でやるやつです。

変なところがあればちがわい!って指摘いただけると猛烈に助かります。

 

 

◆よんだもの

私が読んだのはこれにのってる翻訳ですが,元論文はここ(https://doi.org/10.2307/427491)とかに載っています。

 

 

◆骨子とメモ

・さまざまな理論家によって「芸術とはなんたるか」が論じられ続けてきたが,その問いははたして十分な答えを得ることが可能な問いなのか?既存の理論のどれもが,他理論の主張を否定し,退け,他とは異なる点こそが芸術の本質であるのだと定義づけているが,どれも完璧ではない。それは必要十分条件的な定義を問おうとする姿勢こそがまちがってるから。

・既存の理論五つの概観がある。(直観主義者(クローチェ)のとこよくわからなかった。論理でやっていけることがらの手前にある言語化できない部分を表現することが芸術だ〜みたいな感じか?)

・それらの理論は内容以前に芸術に対して閉じた形での定義を試みているというところがそもそも不適切。

・芸術が開かれた概念であることが説明される。ウィトゲンシュタインのゲームとは何か?の問い、家族的類似の概念。

・芸術とは何か?を知ることは,「芸術の本質」なるものを理解することではなくて,芸術を見分けることができること,それらを説明できること。新しいものが登場した時に,それが芸術であるかどうかはそこでなされる決定/判断に依存する。

・閉じた概念・開かれた概念の説明。

・「Xは芸術である」という発話について。記述的用法と評価的用法とがあり,前者はいいが後者が問題。「Xは芸術だ(訳:Xって(Pだから)良すぎ)」という称賛しか意味していない言葉が,「X(の満たしている性質P)は芸術だ」的に(なぜか)使われて論じられがちなことが問題。そもそも「Xは芸術だ(Xに対する称賛)」という言葉は「性質Pを満たすものこそが芸術だ(Pに関する説明)」にはなりえないし,性質Pを満たすからという理由でXをほめてたとしても,なぜ性質Pを満たすことで「Xは芸術だ」と言われるのかの説明になってない,という二つの問題がある。この節理解がややワヤっている。

・芸術であるという言葉の評価的用法に芸術に対する条件うんぬんが絡みがちなのは、そこで評価基準を見分けの基準に用いてしまうという転倒が起きているからである。ところで,これまでの芸術理論で行われてきた定義は,実在的定義のような見た目をしているが,実際はそのような転倒の上になされた敬称的定義である。(だから実在的定義としては不適切で、OPEN概念を閉じた枠で定義しようとすることとは別に問題である。)(既存のもの全てがそういう形の定義なのか?という疑問はあるけど、そうでしかあれないような学問だろうなという気もする)

・それでは既存の美術理論がなしてきたことは無意味だったのか??違うねッ!!!これまでの美学理論が「定義」として各々主張してきたことはdebateだ!字義通り定義を行ってるというより,芸術に向きあうとき我々が何に注目すべきなのかという推奨の提示をしてるんだ!だから……無意味じゃないよ。(こことても愛……。)

 

 

◆KANSO~

・古典的な芸術,というか19世紀までの西洋画ばかり見てきて,現代の美術作品は古典作品と比べてわからな度が爆高なのでどう向き合えばよいかずっと迷っていた(もっとも西洋画についても表層をサワサワしてるだけでわからん点は無限にあるわけですが,それはそれとして)。折り合いをつけるためにどうしても古典と現代とをなにか統一的な「芸術」みたいな尺度のもとで取り扱わないといけない気がしていたので、発想のグルグル転換を得てすげ〜〜〜になりました。

・面白論文読んでフムフムするやつ楽しい。面白論文情報を24時間募集しています。

・おわり。

 

 

 

 

 

◆さっき開いた大学のアンケート画面

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2者択  1