共感覚について

音に対して、触覚や形状が対応づくタイプの共感覚がある。形状は端がしっかりしていないこともあり、平たいところに空いた穴のように感じられる時もあるので、どちらかといえば「表面」のようであることもあるが、それぞれに感触がある(実際に手やどこかの肌で触っている感覚があるのではなくただ「わかる」だけだが)。人の声、楽器、車の音、床がきしむ音、全て異なっている。ハスキーボイスの触り心地は軽石に似ている。温かい部屋に置いておいたチョコレートのように濃厚な声の人もいる。オーボエの音はつるつるしたゴム製のリボンのようだしピアノはよりまろやかで、すべすべしてはいるのだがクリームのようでもあって例えがたい。強いて言うならきれいに絞り出されて固まったあとの、きめの細かい絵具のようかもしれない。また地下鉄の車両が停止するときにたまに立つ高く長い音は、裂けかけのビニール紐のように感じられる。
共感覚の一つに音と色が対応づくというものがあるが、個人的には色については、わからないことはないがあまり明確ではない。たとえばラは赤から茶として、シ♭は青緑として映ることが多いので、まったく対応づいていないわけではない。ただ調によって同じ音でも色が異なることがあるし、だいたいはメロディの全体でカラーパレット的なものが総合的に感じられるくらいのものだ。個々の音にフォーカスしようとすると色がぼけたようになって定まらないことが多くある。例えばイ長調のスケールは茶色~赤~濃ピンクのグラデーションのように感じられるが、その中でレやミ単体が何色かというのは全く分からない。ファ♯はなんとなく薄い紫のような、ソ♯はなんとなく薄い青からエメラルドグリーンであるような気がするが、先ほどの落ち着いた色のグラデーションからはかけ離れたパステルカラーで、一貫していない。もし音と色がきっちり対応づくならば、視覚も併用した精密な調弦ができそうで便利だろうと思う。
また人の声の色は分からないことが多い。町中の騒音はだいたいグレーがかって感じられるのはさまざまな音が一定せず混じっているからだろうか。明度についてははっきり対応があって、高い音ほど明るく、低い音ほど暗く感じられるのだが(モスキートーンは非常に明るい、「可視域の閾値ぎりぎり」のような眩しさとして認識されるので面白い)。

音楽を聴いているときは聴覚に意識が向くからかつられて共感覚も表に出てきやすい。音とともに通り過ぎていくかたちをぼんやりと見たり見なかったりしている。歌詞がある曲だと歌詞の内容に意識が引っ張られるが、それでも、聞きながらボーカルの人の声音を中心に曲全体の感触を拾っている。本を読んでいるときに文字のフォントが意識される感覚に似ているかもしれないが、それよりは言葉そのものの理解に集中していないからか、目立つ部分を中心にどこかしらに目をやっているような気がする。またコンサートに行きオーケストラの演奏を聴くときなど、音と真正面から相対するときはとりわけ意識が向く。さすがに感触の良さや見栄えのみによって心動かされるというようなことはないが、音楽とともに、自然と金管木管やいろいろな楽器の奏でる音の形や感触が次々流れる。バイオリンやビオラの音色の層はだいたい面積が広く映り、羽でできた浅い小川のようで、寝っ転がりたい。かなり夏の布団に欲しい。海辺に連なる丸い石のようなピアノの和音には目立たないながらも胡椒の実みたいな確かな存在感がある。シンバルの音は眩しくよく目立つ。感触としては辞書を開いたとき斜めに連なる大量の薄い紙の断面が粉へと崩れていくみたいな感じだが、たいていその一瞬の眩しい白さのほうが強烈な印象で通過する(一瞬白く光った後すぐ黒ずみ褪せるように消えていく)。
さらに演奏前の調弦の時間は面白い。あらゆる楽器が同じラをもとに一斉に鳴らされるので、それぞれの音の味わいの違いが一望できる。滑らかな羽のようなバイオリンの音、柔らかい鉛筆の芯のようなコントラバスの音、硬質で縁がはっきりしたトランペットの音、細くふわふわした穂のようなフルートの音が、向きを揃えて混じり合いながら流れる。様々な材質をひとところに集めて撚られる太い糸の生成過程を見るようで味わい深い。そしてつるつるしたオーボエの音がその中に、細くともしなやかな幹のようにしっかりと通っている。なるほどこの楽器の音が基準として選ばれるわけだと納得する。どことなく鶏肉の筋を思い出さないでもない。白くてなかなか包丁で切れないやつ(あれ毎度本当に切れないのだがどうにかしてほしい)。平たくて形としてもけっこう似ている。ただもちろんあそこまで有機的ではなく、もっと乾いていて個として超然としている感じはあるが。

視界に重なる形でこれらの形状が見えていたり、実際に触れているように感じられたりするのではない。が、それらの形状は確かにわかるし触れたらどんなふうかというのもわかる。この音の形状や触り心地はきっとこうだろうと想像ができるというのではなくて、耳で捉えられた音が「聞こえる」ように、頭の中で直接的に把握される。実際に見えて/触れているのと同じ部分が活性化しているのだろうか。
おそらくとても幼い頃からこの感覚はあったと思うが、衝撃音は凹面であることが多いような気もするし、好きな曲であるラ・カンパネラの嬰ト短調のメロディーはこれも好きな色である青っぽいグラデーションとして映るので、案外後天的に獲得されたものなのかもしれない。タイピングの音はキーボードのキーの形に似ているような気もするし、何か曲を聞くと、その曲の断面図(ほとんど瞬間的な音の重なり)のようなものが流れていくように感じられるのは、譜読みの概念と無関係ではないだろう。ただ、いつでも感覚として開かれているけれど意識を向けない限り拾われないところは五感と同じである。五感のミックスではあるのだから当然かもしれないが。

この感覚についてはあらためて書くこともなかったのだが、先日現代音楽を聴いた際に非常に美しいコンポジションのようなものが感じられて強く意識したのと、また軽くググってみると触覚と音が対応づいているケースはやや珍しそう(?)なのとで、1サンプルとして記録を残すのもよいのかもしれないと思い、書いてみた。何か纏まった文章を書きたい気分だったというのもある。

ちなみに似た共感覚保持者で、私のものよりずっと強烈に、触覚から逆に音を想像できるくらいに密接に、触覚と聴覚が結びついている人の書いた記事があった。(どこかで見かけたはずで、リンクを張りたかったのだが今ググっても出てこない。夢?ニューヨークのドラマーの方だったはずだ。)その方はオノマトペを使う中で習得されたものではないかと書いており、似た共感覚でも全く違ってとても面白い。私が音を聞いたときに感じられる触覚はオノマトペ的な言語で区切れるほどきっぱりとしていないし、図像的なイメージが付随するところからも、視覚が媒介しているのだろうと思う。いずれにせよ、原初的なものに思われる感覚が後天的に立ち上がりうるというのは不思議な感じがする。ちなみにその記事を書いた方は、べたべたするといった音の粘度や、触れたときの温度の違いまでも感じられるそうで、なんというかすごくダイナミックだ。熱かったり冷たかったりって結構大変なことじゃないか?個体液体の差がいちいち襲ってくるというのもかなりのことであるように思う。音のあふれる日常を、いったいそんな感覚とともに生きるのはどんなふうなのかまったく想像もつかない。とここで書くのは、わざととぼけてオチをつけようとしているみたいになってしまうかもしらんが、真面目に……。